普通ってなんだろう?映画「歩いても歩いても」に見る普通の食卓。

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食卓から考える“普通”の価値観。映画「歩いても歩いても」


【 歩いても歩いても】

 

Filmarks – 映画情報 –

https://filmarks.com/search/movies?q=歩いても歩いても

 

映画『歩いても歩いても』は少し傷ついた家族の、ある夏の物語。

15年前に他界した兄の15回目の命日、阿部寛演じる横山良多は家族揃って実家に帰省する。両親に言いづらい現状を背負い、足取りは重く苦痛でしかなかった。

まあ家族だし、母親は気合を入れて得意料理を作り、姉は大袈裟に楽しんで見せるので、食卓を囲めば和気藹々な空気が漂う。

ところが父親だけは、ぶっきらぼうな口調で偏屈を放つ…。だいたいそうやって空気をぶち壊すのは父親の得意技だったりする。

その食卓の空気感は誰もが共感できそうな気まづさ。そうしてできた溝は意外と深かったりして、修正するにはきっかけがないと難しくなるんだ。子供だったらなんてことない争いも、大人になるとなぜだか致命的。

大人になるとなんだか遣る瀬無い気持ちになったり、悲しくもないのに泣きたくなったり、他人と比べて勝手に凹んだりする事がある。そういうモヤモヤが邪魔をして、大切な事や綺麗事が言えなくなっちゃうのかもしれない。

食卓では家族関係や内の声が隠せないものなのだ。だからそれぞれの人生を歩むようになった家族ほど、その食事は気まづさや嬉しさ、人間が見える方が良い。

 

 


普通の食卓。


 

先日聞いた衝撃的な話。

「我が家ではご飯を炊きません。レンジでチンのパックご飯だよ。」

 この発言に驚きを隠せなかった。一応言っておくとレンジでチンというのは、冷凍しておいた米ではなくていわゆるレトルト食品のこと。部類としては多分、非常食。

一人暮らしや米が足りなくて仕方なしに、というのなら驚きもしないのだけれど、小さい子供の居る若い家族の話だ。

私の思う“普通”の家族ごはんは、こうだ。それぞれのアイデンティティの表れのように、個性に合わせた茶碗と箸が並ぶテーブル。炊きたてのお米におかずが数種、お味噌汁があったりして、他愛もない会話が繰り広げられる。微妙な味付けの変化には作り手の体調や気分が出るし、おかずの様子で食べ手のテンションが決まる。食卓の空気感に、今日の家族の機嫌がどんなもんかと顕著に現れたりする。

「同じ釜の飯を食う」ということには味覚的な価値観以上に、食を通してコミュニケーションをするということなのだと思う。

それが家族。それが最小社会のコミュニケーション。それが“普通”の食卓なのではないかと思っている。

だからレンジでチンの米を毎日食べるのは“普通ではない”気がした。

ところが、「もしかして、私が思い描く“普通”がみんなにとっての“普通”とは限らないのかもしれない!」という考えが湧いた。ひょっとして、今の世の中ではレンチンごはんが普通だという家庭も多いのかもしれないと感じた時に、自分の中で“普通”の定義がどんどん崩れていった。

炊飯器で米を炊く家、鍋で炊く、電子レンジ、薪で炊くのが普通という人もいるかもしれない。つまり、“普通”の定義は、育った環境から作られる「自分の知ってる世界の延長」でしかない。日本の食事文化にフォーカスしただけでも衝撃を受けるのだから、もっと広く世界を見渡せば、それこそ“普通”なんてものは存在しないと気づく。

それなのに多くの人は“普通”であろうと自分を騙し個性を隠す。だって普通でいる方が楽だもん。

当たり前だ、その“普通”は自分の考える保守的だったり理想の価値観だから。だから“普通ではない”ことをしようなんて、大冒険。そりゃ怖いさ。でもそんな時、自分にとっての普通がみんなにとっては普通ではないって思えたら、随分と気が楽になる。

こんなお話を綴っても、「確かに。」と流してしまう人がほとんどでしょう。それでもまあ、いいんです。今日は別に、いいこと言って誰かのヒントになろうなんて痴がましいことを思ってパソコンに向かっているのではないのです。

私は、炊飯器で簡単に炊いた“普通”の炊きたてごはんが大好きだ!そう言いたかっただけです。

 

 


じゅわ〜っ、ポンポンポン。


 

この映画、冒頭から心地の良い料理音が響きます。揚げ物を作る音がとても心地良い。

母親は、久しぶりの再会が嬉しくて良多の好物や他界したもう一人の息子の好物をこしらえていたのでしょう。意地悪な親父の奥さんって大抵そういう温かい人って決まっている。

家庭料理って、似たような香りや音だけで自分だけのストーリーが記憶として呼び起こされる。作ってくれた人がいなくなってしまっても、そういう記憶が元気をくれたり励ましてくれる。大人になる程うまみが増すのが味の記憶だ。

映画から聞こえる古い台所の料理音はそれだけで懐かしく、私の場合はあばあちゃんの割烹着姿を思い出した。油の弾ける「じゅわ〜っ、ポンポンポン。」という音。

「あ、この音知ってる。」ちょっと嬉しくなってお腹が空いた。揚げ物って家庭料理の中でも手間や後始末が面倒なもの。その音が自分の“普通”の記憶にあるのは、きっとすごく幸せなこと。

映画では、その音の正体はトウモロコシのかき揚げなのだけど…

私の記憶の正体は、アジフライの音。

食べたいなぁ。

じゅわ〜っ、ポンポンポン。

 

 

 

この作品で母親役を演じられた樹木希林さんに、心から感謝を申し上げます。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

2018.09.26

Live, Love, Laugh, and…Be “HAPPY”
Thank you
Mineko koyama

 

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